ホームレスとは狭義には様々な理由により定まった住居を持たないで公園や路上などで生活する人のことを指しますが、広義にはホームレスとは家賃滞納、再開発による立ち退き、ドメスティックバイオレンスのため自宅を離れなければならない人など住宅を失う危機にある人のことも指します。そして近年の経済危機による雇用の低下や派遣切りなどで多くの人が済む家を失い、その場しのぎでインターネットカフェに泊まる「ネットカフェ難民」やマクドナルドで多くの時間を過ごす「マック難民」や車上生活者もホームレスというカテゴリーに含まれる傾向にあるようです。
久々に読み応えがある1冊。きらめく造語で読者を惑わせることなく、現場を見ている一活動家の誠実な現状分析と私達への切実なメッセージが伝わる。
貧困とはどういうものか、その背景にあるのはどういうものか。単に所得が低いから貧困なのではなく、選択肢が奪われて自由な選択ができない状態を貧困というのであり、教育からも企業からも家族からも公的な福祉からも排除され、なにより生きる意味を自分に問えなくなっている『自分自身からの排除』がその背景にあるという。
蔓延する自己責任論に対しては、『他の選択肢を選べたはず』という前提に成り立つ理論であり、他の選択肢を等しく選べない(湯浅氏曰く『ため』を奪われた/失った)状態である現代の貧困問題について振りかざすべきではない。健全な社会とは自己責任の適用領域について正しく線引きできる社会であると。多くの人が貧困について知ることにより、自己責任論の濫用が防げるとある。
憲法違反にもなりかねない貧困の実態を認めてこなかった政府のお粗末さ、貧困階層を食い物にしてきた貧困ビジネス、そして何より貧困を運の悪かった他人事として『見ざる』を決め込んできた自分自身を今猛烈に恥じている。
湯浅氏らの地道な活動は、他の様々な活動とも連携をとり始め、政治をも動かし始めている。そしてこの本を読む私達自身をも動かし始める。なぜなら今や目に見えるようになった貧困はいつ自分達が陥ってもおかしくない脅威であり、反貧困を目指す活動はすぐにでも参加できる状態で目の前にあることが判明したからである。
思った以上に勉強になった一冊でした。
自分も比較的どちらかと言うと、格差に対して、筆者の指摘通りの見方をしていたので、筆者の言いたいことが良く伝わりました。
自分は貧困は全てとは思っていませんでしたが、大半がフリーターや派遣労働を選択している自分たちの責任であり、それを救済すると言う意味が正直理解出来ませんでした。
少し前にあった、派遣の大量解雇。
本音を言うと、契約期間が早いか遅いかの違いで、数ヶ月後には別な職を探さなくてはいけない状況なのに、なにがそんなに問題なのか理解に苦しんでいました。
全てがそうとは思っていませんでしたが、働く意志もなく、計画もなく、今日をただ生きている人が自分で選択して現在の環境があると思っていました。しかしこの本を読むことにより、自分の考えが少し変わりました。
たしかに選択出来ない、努力ではどうしようも無い状況が多々あったり、貧困の連鎖からの脱出は容易ではなく、それに対して、社会はもう少し理解と援助が必要と理解しました。
貧困問題に鈍感であると反省して本書を読んだ。一気に読み終わり 今までの自分の不明を深く恥じることになった。
自身として マーケットの中、競争原理の下で ここまでやってきている。その間に自分なりに努力してきた点は若干の自負があった。しかし そもそも「『努力して』くることが出来た環境にいた」という点が 自分として全く見えていなかった。「自分一人でやってきた」という自負に かなりの驕りと甘えがあった点を突きつけられたからだ。
本書での著者の最大の目的は「貧困の可視化」にある。本書から見えてくる日本という国の危機的な状況がある。
例えば 今回の経済危機の中で「内需拡大」という話があるとしたら その「消費者」そのものが 内側から崩れてきているということだ。気がついたら 国民のかなりの人が 「消費者」足ることができなりつつあるという事が 日本という国を どこに連れていくのか。そういう議論が もっと経済界からも起こってしかるべきだと思う。
今まで自分でも 安易に「自己責任」という言葉を使ってきた。それは冒頭の自負にも寄るものがあったことが今分かる。本書で可視化されるべきは 貧困問題だけではない。今まで見えてこなかった「自分自身」ではないだろうか。
湯浅氏の描く貧困者とは誰を言うのか?年末派遣村は氏の名を全国に知らしめた一大イベントであったが、あのときに村に集まった人数は400〜500名だったが、厚生労働省統計上、東京都で「派遣切り」(これも誤った使われ方をしており、派遣協会が報道各社に申し入れている…雇用期間満了に基づく雇い止めはまさに遵法であり、解雇ではないにもかかわらず、刺激的な言葉をわざわざ使う巧妙な手口だ)となっている人数は約100名。あとの人々は何だったのか?
そもそも、大学4年生のときに懸命に職を探し、その後、辛さを我慢し、自分を励ましつつ勤続した人々がようやく辿り着いた今の地位、賃金に対し、そのような努力をせずに年を重ねた人たちが、なぜ自分より賃金をもらうのだ!なぜ自分は契約制なのだ?おまえらと同じ賃金、地位を自分たちに保障せよ!などと主張する。これは理不尽と言うものだ。今に至るまでどれほどの努力をし、犠牲を払ってきたことか。バイパスから来た人々と同様に処遇されるなら、世の多くのまじめな人々には、大きな失望を与える。
人の不幸を願う訳ではない。努力に応じた正当な状態が今の生活、賃金なのだ。決して不当に獲得したものではない。
湯浅氏はなぜその当然のことを抜きにしてすべてのことが語れるのだろうか?氏はこの活動、またマスコミに取り上げられることにより、今後の自らの食い扶持を得ている。その意味では、貧困層を食い物にしていると言えないか?
大いに疑問の湧く著作である。
日本の社会は弱者にとても冷たい。いったん派遣で働いてしまうと派遣という階層に固定されてしまう。社会正義を装って立場の弱い人を食い物にする貧困ビジネス、社会福祉の公務員が逆に貧困者の最後の望みを断ち切ってしまう実態などが記述されている。著者のいう家族、貯金、人間関係などの”溜め”の大切さに気づかされる。貧困は自己責任ではなく本人の無知と社会の無関心が原因なのだろう。派遣法の対象業務が広がったのは小渕内閣のころであるが、それと同時に労働分配率が下がっていく。労働分配率が下がり、派遣社員、契約社員、パートが増えれば、それまで幅広く購入された贅沢品が買えなくなるので百貨店が衰退し、長期ローンを組んで購入する住宅も売れなくなる。価格を下げるために非正規社員の人件費を削減すると購買力が落ち、さらに値段を下げなければ売れないという負の連鎖になる。ここに書かれているホームレスの生活苦は特殊なことではなく、誰にでも起こりうる。削減された人件費の向こう側には人間が存在している、といことは忘れないでほしい。